田端文士村ツアー

10月22日(土)は曇りでしたが街歩きには絶好の天気。
参加者の皆さんが予定より早く集まっていただけたので
出発時間の午前10時前に最初のグループがスタート、次
のグループも予定より早く出発できました。

JR駒込駅 東口を出発、谷田川通り⇒中里第二踏切
大龍寺⇒室生犀星旧居⇒のらくろマンホール⇒板谷波山旧居
ポプラ倶楽部⇒区民センター(休憩)⇒東覚寺 ⇒天然自笑軒
芥川龍之介旧居⇒田端文士村記念館までの約2時間のコース。

谷田川通り
山手線の最後の踏切 中里第二踏切

 

大龍寺 正岡子規墓前

 

区民センターで休憩
サトウハチロー旧居付近

八幡坂、ポプラ坂、与楽寺坂などアップダウンがありまし
たが参加者の皆さんは街歩きを楽しんでいました。

のらくろマンホール      (田端小学校前)

田端文士村記念館では、記念館の方から館内を回りながら
展示物などの丁寧な説明をいただきました。のらくろがデ
ザインされたマンホールカードやパンフレットを記念館よ
りいただき解散となりました。

次回は12月3日(土)「六義園の紅葉鑑賞と大和郷」ツアー
になります。皆様のご参加をお待ちしております。

 

 

地域創生と街歩き

10月4日(火)5日(水)6日(木)の3日間、大正大学の1年生と街歩きを通し、地域づくりへの理解を深める授業に協力をしました。

4日(火) 10:50~16:50  学生13人 先生1人
テーマ 「まちあるきの意義とプランニング」

①学生と 地域の生涯学習団体「としま案内人駒込・巣鴨」の活動紹介
②大学の魅力案内の計画をたて、グループに分かれ、校内を案内人に紹介
③学生がたてたプランに沿って、案内コースの下見

会の紹介
グループごとにプランニング

 

 

 

 

 

学生が校内を案内しながら、魅力を私たちに紹介してくれました。図書館の施設がゆったりとしていることや蔵書が多岐にわたるのも、伝わりました。振り返りでは知識が必要、時間が設定どおりにいかなかった等、の発言がありました。

案内人と東京種苗株式会社を下見
藤堂家墓所
本郷学園

5日(水) 10:00~16:50 学生14人 先生1人
テーマ 「まちあるき案内の技術と方法論」

①大正大学から前日下見をしたコースに沿って街歩き
②班ごとに振り返り
③講義「まちあるき案内の技術と方法論」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨の中、案内ポイントの五ヶ所は大学生が案内し、他は案内人がガイドをしました。自分たちの目線でのレポートなど興味深いガイドでした。

調べたことをガイドするのは難しい

 

 

 

 

 

 

午後は班ごとに全体の振り返りを実施。発表ではコースにある「福島屋」さんの食レポもありました。下見の大切さも伝わったと思います。

第一印象を大切に

 

 

 

 

 

 

午後は講義で、「まちあるき案内の技術と方法論」です。
覚えてもらう自己紹介 、ストーリー性のある自己紹介で
自己紹介の重要性を伝えました。ガイドテクニックや
活舌を磨こうなど、とても興味深い講義でした。

10月6日(木)13:20~16:50  学生14人 先生1人
テーマ 「まちあるき学習と地域づくりへの展開」

①学生の発表会と質疑応答
②講義 「駒込地区の地域づくり」

 

午前中に発表会の準備をしました

 

 

 

 

 

 

 

パワーポイントを使っての手際の良い発表や学習には案内人が感心していました。

地域創生の課題、この街をどうしたいのか

学生の発表に続き、駒込に住んでいる案内人が現在の巣鴨・駒込の姿や地形などを紹介しながら、地域に根差した、駒込の街づくりの講義をしました。
地域の人々の気持ちが一つになることで、地域の良い環境が作れるようになるなどの感想も聞かれました。

今回の授業では学生の発想や視点の違いからヒントを得たところもあり、これからも若い人達と接する機会も持ちたいと思っています。
コロナ禍で3年間、大学生との交流ができませんでしたが、地域学習の発表の場を提供して頂いた大正大学と先生に感謝しています。まち歩きの面白さと意義を実感できたのではないでしょうか。

 

 

染井霊園周辺に女性史を見る

9月10日(土)・11日(日)10:00~12:00
[巣鴨地域文化創造館 地域文化講座] 当会のメンバーが講師を務め、会の定番コースの中のにある「染井霊園」に眠る女性や居住していた女性を取り上げました。

江戸から明治、大正、昭和と時代が大きく動く中、いくつもの障害に出会いながらも、自立を目指した多くの女性にスポットをあて、染井霊園とその周辺を通して、これらの有名、無名の女性達の姿をご紹介しました。

1.江戸・明治・大正・昭和の女性史-権利獲得の歴史-

 

 

 

 

 

2、土方梅子 染井霊園に眠に眠る築地小劇場の舞台衣装家

大正時代「築地小劇場」を創設した演出家、土方与志の妻で舞台衣装家として、活躍をしました。
文学や演劇などへの偏見や検閲、太平洋戦争の勃発などの時代に演劇を作ることに情熱を注いだ二人の情熱が伝わりました。

3、青踏の女性達 巣鴨・駒込で女性の自立を謳う

【青踏】は平塚らいてう等5人の女性が発起人となり、明治44年から大正5年まで発行された、日本初の「女性による女性のための月刊誌」でした。駒込・巣鴨の地にも「青鞜社」が置かれ、平塚らいてう、伊藤野枝らが住むなど、身近な彼女たちの足跡をご紹介しました。

11日(日)は染井霊園に眠る,明治から昭和にかけて活躍した女性を取り上げ、案内をしました。

霊園ルート 本妙寺「千葉さな」→慈眼寺「比翼塚」→五島美代子→勝林寺→ケイト・ヤングマン→専修院→津田琴子(上野栄三郎)→荻野吟子(高階経徳)→楠本イネ(高良斎)→若松賤子福田英子土方梅子長沼千恵子→伊藤熹朔・千田是也→ローダスカ・ワイリック→高岩寺で解散です

本妙寺

 

 

 

 

 

 

本妙寺には北辰一刀流、千葉周作のお墓がある。弟の定吉の娘さな子は
10代で免許皆伝になる美貌の女剣士。坂本龍馬と婚約も。さな子は一生独身を通し、晩年は千葉鍼治院で生計を立てていた。お墓は甲府。

五島美代子

 

 

五島美代子(明治31年~昭和53年)は歌人で、1959年より美智子妃の
御歌指南。同墓所に眠る美代子の母、五島千代槌は、巣鴨にあった明治女学校を卒業、教鞭も取り、その後巣鴨に晩香女学校を設立。

 

ケイト・ヤングマン

 

ケイト・ヤングマンは明治6年アメリカから来日した宣教師。
ハンセン病施設「目黒慰廃園」を設立した。

若松 賤子

 

 

 

 

 

 

若松賤子は明治4年、宣教師のメアリー・エディ・キダーの英語塾(後のフェリス女学院)に入塾。バーネットの「小公子」「小公女」を翻訳した。夫の巌本善治は明治女学校の校長。賤子は「明治女学校」で教鞭を執った。

 

 

 

 

 

 

 

土方梅子は日本初の新劇の常設劇場、築地小劇場(大正13年)の創設者で
演出家、土方与志の妻で、舞台衣装を手掛けた。その波乱の人生も座学で紹介。

長沼智恵子

 

 

 

 

 

 

長沼智恵子は後に高村光太郎の妻、明治44年に「青踏」の表紙絵を描いた。

二日間で、駒込周辺に居住していた女性の文化人や、染井霊園に眠るあまり知られていない女性を、深堀して講演をしました。
参加者からは「まだ、知らないことが多かった」「詳しく分かって良かった」など色々感想を頂き、嬉しく思っています。

次回は「田端文士村を訪ねる」です。10月1日(土)から告知と募集をします。ハガキとホームページからもお申し込みができます。
ご応募お待ちしています。

飛鳥山の紫陽花と旧古河庭園のバラを訪ねる

2022年6月4日(土)。今年3月に催行したお花見ツアーに続いて、
2回目のガイドツアーです。お客様は13名。
今回は大正大学から2名の大学生がボランティアガイドに参加しています。

梅雨の合間の晴天が私たちを迎えてくれました。
旧古河庭園から飛鳥山公園まで、10時から約2時間の行程です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭師がお仕事中

 

 



バラの最盛期は過ぎていましたが、二番花がきれいに咲いています。
旧古河庭園は足尾銅山などの鉱山経営で財をなした、明治の財閥、古河家が造った庭園です。和と洋が其々独立した庭を造りながら、全体に調和がとられています。

4,5人のグループが3班に分かれて、それぞれにガイドをしています。少人数なので、歩きながらの会話も弾みました。
この庭園は「水」「石」「木」をバランスよく配置することで自然の雄大さや繊細さを表しています。当時の日本で最高の庭師と言われた7代目小川治兵衛がコンドルの洋館と共存するように作庭した池泉築山回遊式日本庭園です。

平塚神社

 

 

 

 

 

 

 

 

日陰を選んで、ガイドです。
平塚明神縁起絵巻によると、義家(八幡太郎)、義綱、義光(新羅三郎)兄弟が奥州凱陣の時、平塚城に逗留し、接待に感謝した義家が、十一面観音像と鎧を下賜(かし)したことが描かれています。

「平塚」の地名は義家が没した後、城の鎮護のため、拝領した鎧を埋納し、平らな塚の社を築いたことからといわれています。

女性像の散水塔

 

 

 

 

 

 

 

 

これは何だろうと、見上げています。女性像の上の方から、火事の時などに散水します。
滝野川公園は体育館や防災センターを作る工事の際、先土器時代から江戸時代までの複合遺跡が発見されたところです。現在、この周辺は防災センター、消防署、警察署、病院、体育館があり、滝野川公園を含めたこの一帯が総合的な防災拠点になっています。

七社神社

 

 

 

 

 

 

ガイドも茅の輪くぐりをして、穢れを祓っています。
七社神社は江戸時代には無量寺境内の裏山(旧古河庭園付近)にあり、七社(ななやしろ)として祀られていたといいます。
写真は夏越の大祓(なごしのおおはらえ)で、半年の間に、積もった罪と穢(けがれ)を払うという、茅の輪くぐりをしています。

 

 

 

 

 

 

資料も広げて、分かりやすく話をしています。
ここから旧渋沢庭園・渋沢家飛鳥山邸です。28,000㎡の広さの庭に日本館・洋館・茶室などいろいろな建物がありました。多くは昭和20年の空襲で焼失してしまいました。

皆さん、ステンドグラスを見てください!

 

 

 

 

 

 

 

青淵文庫は書庫として、渋沢栄一 の理念に共鳴した経済人らが組織した、
竜門社が1925年(大正14年)に栄一の傘寿と子爵に昇格したことを祝って、
贈呈しました。銅製の書棚などが備わっています。

茶席「無心庵」跡

 

 

 

 

 

 

 

 

今は茶席は昭和20年の空襲で、焼失していますが、明治32年(1899)に京都裏千家の茶席などを参考にして建てられていました。茶席の他に広間も設けられ、伝統的な中に新しい時代の茶席を感じさせたようです。
栄一は、静岡から東京に戻ってきた徳川慶喜と明治新政府の伊藤博文らをここで対面させて慶喜の名誉回復を図ったという逸話が残っています。

徳川吉宗の絵を掲げて

 

 

 

 

 

 

飛鳥山の碑を遠くに見て、案内をしています。
飛鳥山の碑は都の史跡に指定されていて、8代将軍吉宗が飛鳥山一帯を整備し、行楽地として庶民に解放した経緯などが記されています。桜の名所として付近に茶屋も出来ました。

飛鳥山公園は明治6年(1873)、わが国初の公園の一つとして、浅草・芝・上野・深川公園と共に認定されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飛鳥の小径は350メートルの細い道に50種、約1300株の紫陽花が植えられています。
ツアーはここで、自由散策となり解散です。

応募して下さいました皆様、ありがとうございました。
このツアーのお客様には「としま案内人雑司ヶ谷」の方など多方面からの方々が参加してくださいました。
参加して下さった方の感想は、
「このツアーは人数が制限されていて、話も聴きやすく安全・安心」
「ガイドスタッフに若い方が多く、元気よく活動できているので羨ましいです。」
「ボランティアガイドとしての誇りをもち、楽しんで説明していることが伝わって    くる、聞いていて楽しくなるような素敵なツアーでした。」
など、嬉しいお声が頂けました。

次回は10月の「田端文士村を訪ねる」です。
私達ガイドは今から資料集め、下見などを重ねて準備をしています。
皆さんが楽しめるように練習!練習!です。

 

お花見ツアー「駒込・染井」

3月26日(土)は花曇りでしたが、桜は8分咲きといったところで、充分にお花見を楽しまれたのではないでしょうか。
私達も2年ぶりでお客様と一緒のツアーが出来て、たいへん嬉しいツアーでした。

駒込駅を10時に出発し、大国神社⇒染井通り⇒門と蔵のある広場⇒西福寺     ⇒染井稲荷神社⇒染井吉野さくらの里公園(トイレ休憩)⇒染井霊園⇒高岩寺
まで、約2時間の行程です。

染井吉野桜記念公園
染井通りに向かって

駒込駅北口にある「染井吉野桜記念公園」から出発です。
染井橋の近くでチョット想像してもらっています。
1860年に来日したイギリス人植物学者、ロバート・フォーチュンも
驚嘆した、植木屋が1マイルも直線で並んでいた染井通り。
当時、江戸が植木ブームでした。

国の「登録有形文化財建造物」の蔵
蔵の内部

 

 

 

 

里帰りした染井吉野桜

門と蔵のある広場は江戸時代、植木屋として活躍した丹羽家が住んでいた土地を広場にしました。コンクリート造りの蔵は昭和11年の造りで、昭和初期の建築技術を見ることができる。蔵は3/25〜4/10まで、毎日公開する予定で、今回は内部の写真が撮れました。ワシントンから里帰りした染井吉野も植えられています。

西福寺前の桜
豊島区立駒込小学校
この桜は地域の桜開花の標準木です
染井よしの桜の里公園

染井よしの桜の里公園にはソメイヨシノ、エドヒガンザクラ、オオシマサクラ、キリン、河津桜、寒緋桜、ウコン、枝垂れ桜があります。

染井霊園は桜が満開でした。

高岩寺

高岩寺で解散です。この中に書ききれない沢山の情報を提供しています。
これからも、楽しく、あまり知られていないことをお話していきます。
次回は「旧古河庭園と飛鳥山」です。ご参加をお待ちしています。

 

 

 

 

 

 

巣鴨地藏通りの今昔

巣鴨地域文化創造館地域文化事業の一環として
「としま案内人駒込・巣鴨」が講演と街歩きを行いました。

3月5日(土)約2時間の座学。
1 遺跡調査から見た巣鴨・地蔵通り
2 幕末以降の災害・戦争と巣鴨
3 東京大空襲の巣鴨と復興、そして今

3月6日(日)約2時間で、巣鴨地域文化創造館~眞性寺をガイドしました。

①巣鴨創造館⇒②庚申塚⇒③明治女学校⇒④大日堂⇒⑤延命地蔵⇒⑥種子屋⇒⑦鴨台観音堂-⇒⑧庚申塚遺跡⇒⑨巣鴨創造館⇒⑩鍛冶屋跡遺跡⇒⑪本妙寺(明暦の大火供養塔・ 遠山の金さん)⇒⑫すがも平和霊苑慰霊碑⇒⑬染井霊園(近衛銃工長、小河一敏、藤堂高猷、 幣原喜重郎、ロダスカ・ワイリック、正木退蔵)⇒⑭高岩寺⇒ 15眞性寺(震災碑・日露戦争碑等)

巣鴨近辺の遺跡発掘の話は”日本列島に渡来した人々”から始まりました。
続いて、都立大塚ろう学校で発掘された黒曜石や落とし穴の写真、巣鴨一丁目の遺跡で発見された弥生土器と勾玉・管玉、江戸時代の地藏通りで発掘されたトックリなどの出土品の写真や現物の展示品を見て頂き、同時に巣鴨の歴史も講演しました。

 「幕末以降の災害・戦争と巣鴨東京大空襲の巣鴨と復興」では
巣鴨三丁目から発掘された、現場の本物の焼夷弾の不発弾が展示され、
ビデオなども使って空襲の様子が具体的にお話しできました。
現地見学では「大日堂」「延命地蔵」などに空襲の痕を見ました。

 

巣鴨庚申塚・猿田彦神社
このお堂には庚申講の人が 60 日に 1 度の庚申の日に集まり、一晩寝ずに徹夜をした場所で、 創建してから約 500 年も経っている。明治になって庚申の「申」が「さ る」と読むので道と境界の守り神の猿田彦大神を千葉から勧請している。

大日堂
徳川2代将軍秀忠とその夫人に仕えた春海和尚が二人の供養のため、承応2年(1653)石造の大日 如来を安置した小堂。昭和 20 年 4 月 13 日の巣鴨大空襲の直撃を受け、大日如来は頭部、両腕を失ったが、平成 12 年、地元の奉賛 会の熱意により復元された。

種子屋街道
西巣鴨付近の中山道は種子街道とよばれ、行き来する旅人が故郷土産に野菜の種を買っていった。写真の家は街道側のガラスに「東 京種苗株式會社」とある。西巣鴨付近の中山道は種子屋街道とよばれ、行き来する旅人が故郷土産に野菜の種を買っていった。写真の家は街道側のガラスに「東京種苗株式會社」とある。このあたりは巣鴨大空襲の焼失からかろうじて免れ、戦前の家が残っている。

すがも鴨台(おうだい)観音堂(さざえ堂)
大正大学構内に、平成 25 年(2013)、大乗仏教精神に基づく建学の理念「知恵と慈悲の実践」を形 にし、「巣鴨」との地域交流の場となることも願い建てられた仏教文化施設。

本妙寺
本妙寺は明暦 3 年(1657)1 月 18 日の「明暦の大火(振袖火事)」の火元の一つとされ、この大火 で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がある。

すがも平和霊苑
昭和 63 年(1988)高野山真言宗功徳院(本院は大分県)によって、巣鴨に開設された。昭和 20 年 3 月 4 日の巣鴨空襲で、庭の防空壕にいた幼い 3 姉妹が亡くなっり、その地に平和霊苑が作ら れた。漫画家富永一朗氏(松島住職と同郷)の絵による三姉妹の供養碑が建立された。

近衛銃工長美川氏 の墓
幕末以降の災害・戦争が講演の主題なので、珍しい砲弾型のお墓を紹介した。近衛第一大隊銃工長美川出生士 氏のお墓。日露戦争(明治 38)ではなく明治 44 年 71 歳で亡くなられた。

ホームページではご紹介しきれない、2日間の講演でした。
コロナ禍での活動でしたが皆様、予防対策にご協力をありがとうございました。

 

小学3年生の社会科授業「豊島区や人びとのくらしのうつり変わり」

2月24日(月)に清和小学校、3年生の社会科授業の2時限を使い、
「昔の巣鴨の様子を伝える」についてお話をしました。

事前に先生がまとめて下さった「知りたいこと」はこんなことです。

・昔の学校はどうだったか・給食のこんだてのちがい・
学校で、はやっていたことは

・どんな遊びをしていたか

・おこづかいいは・どんなお手伝いをしていたか・
昔の店は

・食べ物のちがいは・昔のなべものは・昔のおやつやごはんは

・道具のちがいは スマホは・テレビはどんな番組が多かったか(人気番組も)

・昔の のりもの、車は・巣鴨の昔の駅は

・戦争でやけた家をどうたて直したか

・東京オリンピックの前と後の違いは

私達(昭和生まれの当会員)が子供時代に使われていた蚊帳
やオート三輪車などの写真を使い、また、自分の70年前の母子手帳に炭や菓子の配給券が付いていているのを見てもらい、暮らしの移り変わりをお話しました。
戦後の厳しい生活も付け加えました。
講演者の二人とも子供時代を振り返る良い機会になりました。


60年前頃手に入れた貝(ハマグリ?)の化石に、
立ち上がって見ようとする子供もいました。


我が家にある約40年前のかやで、未使用です。
かやは、蚊などの害虫から人などを守るための目の粗い布で
就寝時に天井からつるして使います。

清和小学校の生徒さんから、かわいいいお手紙をいただきました。


私達も子供の頃を思いでして、楽しい授業になりました。

「としま案内人 駒込・巣鴨」のを紹介しているパネルを
廊下に展示してくれています。
私たちは駒込、巣鴨周辺のガイドをしているボランティアです。
また、皆さんとお会いできればいいなと思います。

 

 

巣鴨地域文化創造館 文化カレッジ「染井霊園に見る近代医学を 支えた人々」

巣鴨地域文化創造館の文化カレッジで「染井霊園に見る近代医学を 支えた人々」
の講演を12月11日(土)10時から2時間を座学とし、12月12日(日)は10時から12時まで、染井霊園を巡りました。

 

 

 

講演は館長の挨拶から始まり、各々のテーマに沿って講演をしました。
1.幕末明治期の感染
2.日清戦争後の大検疫
3.緒方正規と北里柴三郎 同郷のライバル
4.病と看護と親孝行 二人の八重
5.染井霊園に眠る多彩な医療関係者達

 

 

 

 

 

 

染井霊園は明治7年に開設され、都営霊園としては一番小さい霊園です。
ここには政治家や文化人など多くの著名人が眠っています。
今回は医療関係者に的を当てて、霊園を廻りました。

染井霊園の手前には「巣鴨御薬園跡」があります。
薬園は寛政10年頃に幕府に仕えた渋江長伯が管理をして、
疾病治療をするために薬用植物を栽培しました。

 

 

 

 

ローデスカ・ワイリックの墓は外人墓地にあります。
日露戦争時、戸山陸軍学校で看護活動やハンセン病患者の施設を
訪問して看護をし、「東洋のナイチンゲール」と呼ばれました。
大正3年57歳で亡くなっています。

 

 

 

 

勝沼清蔵は血液学の権威で西園寺公望の主治医でした。

 

 

加藤照業の墓です。日本初の私立精神病院(瘋癩病院)院長でした

ハンセン病患者の介護などをした、ケート・ヤングマンの墓の前で。

二日目はこのページでは紹介しきれない医療関係者のお墓を
会員が調べて、参加された皆さんと廻りました。
ツアーの終わりに巣鴨地域文化創造館のアンケートに答えて頂きました。
皆様、ありがとうございました。

 

 

大名庭園六義園の紅葉鑑賞と大和郷

12月4日(土)9:30~12:00
紅葉の時期には庭園のライトアップがありますが、今年はコロナ感染予防ということで開催は中止され、昼間は予約を取ってからの入園です。昼間だけの開園のため、今回のガイドは混雑を予想しての体制をとっています。
参加者18名が3班に分かれて準備の出来た班から出発です。
案内役とサポート、写真・記録係など会からは9名の参加です。

園内では混雑を避けてのコースをとりました。枝垂れ桜⇒田鶴橋⇒芦辺の茶屋跡⇒渡月橋を見て⇒山陰橋⇒つつじ茶屋⇒吹上の浜⇒しをりの峰⇒紀ノ川上⇒出汐湊と歩きます。

イチョウブナは黄色くカエデ、ハゼ、ドウダンツツジなどは赤く、青い空にとても映えています。

 

 

続いて大和郷です。
ここは明治11年、岩崎彌太郎が現在の六義園を中心に大和郷、染井地区などう約2万坪を購入。大和郷は大正時代に住宅難を解消するため、開発されたといわれています。
今回は六義園運動公園・観徳場⇒大和郷会・大和郷幼稚園⇒大和倶楽部⇒巣鴨駕籠町看板⇒徳川慶喜巣鴨屋敷跡と廻ります。

徳川慶喜の屋敷跡の石碑

ガイド中にはぐれた場合を考慮して、参加者には裏に連絡先電話番号を入れた、班別カラーのストラップを使った名札を下げてもらい、園内を案内しました。
会のスキルを活かした案内はいかがでしたでしょうか?
次回は3月の桜ツアーです♪♪

 

旧くて新しい街大塚をご案内

11月27日(土)午後1時から約2時間で、「地理の会」の方々を大塚駅
から巣鴨の高岩寺まで、ガイドをしました。空気は冷たいものの、快晴で気持ち良く街歩きができたと思います。

大塚駅前

平成21年に大塚駅南北自由通路ができ、平成29年5月大塚駅南口駅前広場、
大塚駅北口駅前広場と次々に再開発が進み、駅前には有名なホテルやビルが建ち、ビルの中にある、おにぎり屋さんに行列ができていました。東京さくらトラム(都電荒川線)が走っています。

ビルの中の滝不動
滝不動
壁に流れる滝
壁に流れる滝

谷端川が流れていた頃、谷端川沿いにあった「不動明王立像」は川が滝のように流れていた場所に位置していたため、「滝不動」と呼ばれていたそうです。開発が進み、今は個人所有ビルの中の壁に流れる滝と、共にあります。

大塚サンモール商店街

 

 

 

 

 

8月には例年、「東京大塚阿波おどり」が開かれ、1,000人以上の踊り手で
大塚が賑わいます。コロナ感染が広がっていた今年も開催は見送られました。
大塚駅南口のサンモール商店街のゲートを入ると小さな広場があり、五差路になっていて、商店が広がっています。角に大塚鈴本ビルが建っていてます。戦前はその場所に「大塚鈴本」という寄席がありました。その後80年代まで、「大塚名画座」と「鈴本キネマ」という2つの映画館がありました。今も「鈴本ビル」のプレートが残っています。

大塚天祖神社は鎌倉時代末に天照大御神を祀ったことが始まりとされています。巣鴨村(西巣鴨)全体の総鎮守でした。太平洋戦争の東京大空襲で被災しても、保護ししたところ回復したのが、写真の夫婦イチョウです。

イスラム教モスク(教会)「マスジド大塚」

 

 

 

 

 

 

 

 

天祖神社から近い所にイスラム教の教会があります。
東日本大震災の時には大塚の人たちと救援活動をしたり、
今日は教会の前で、慶応大学の学生さんが「子ども食堂」の
支援を呼びかけていました。
寄付の品はお米、乾麺、ハラールショップにある物だそうです。
カップ麺もありました。アルコールは受け付けていません!

「からたちの花」の歌碑と棘のあるからたちの樹
巣鴨教会

 

 

 

 

 

 

 

巣鴨協会に「自営館」が設立され、身寄りのない子供や学生に仕事を与え、自活させながら、学校へ通わせていました。山田耕筰も父を亡くし、この教会で子供時代に印刷工をしながら暮らしていました。
作詞 北原白秋、作曲 山田耕筰の「からたちの花」は【白い花、青いとげ、そしてあのまろい金の実。それは自営館生活における私のノスタルジアだ。】
と自伝に書かれています。

丸山千代記念碑

 

 

児童遊園の中にある石碑には
「この街でおおくの子らの母であった丸山千代先生 瀬尾弘吉書」
とあります。大正から昭和にかけて聾啞者などの教育や生活困窮者の
子供たちのための託児所を設置、運営しました。

 

 

 

 

 

大塚三業地には料理屋、芸者置屋、待合の三業(三つの分業)がありました。
待合とは料理を作らないで、接客の部屋を提供する場所で、
商売の接待や芸者遊びに使われる場所です。
歌舞伎役者で人間国宝の坂東玉三郎さんはここにあった料亭「富士間」の息子さんです。

明治維新後、現在の大塚から巣鴨駅にかけて牧場がありました。
東福寺参道脇に「疫牛供養塔」があります。

廃兵院のあった場所にある巣鴨公園には「護れ傷兵 忘るな武勲 陸軍大将本庄繁」の石碑があります。廃兵院は、日露戦争での負傷兵を収容するのための約2万坪の施設でした。負傷兵は全国から集められ、付き添いの家族も周辺に移住してきました。1936年に小田原に移転し、1923年に負傷者のための義肢義足などをつくるための啓成会が設立され、障がいのある人のための生産活動を続け、現在に至っています。今日はドアが閉まっていました。

明治24年に上野駅の整備により巣鴨に移ってきた高岩寺は畑や牧場のある郊外で、参拝客が減っていました。明治36年に日本鉄道の山手線巣鴨駅が開通し、住職が縁日を増やしたり、工夫を重ね「とげぬき地蔵」の御利益を広めていきました。現在は洗い観音も多くの参拝者に親しまれ、4の日の縁日には大変な賑わいで、「おばあちゃんの原宿」として知られるようになっています。
今日はここで、解散です。

地理の会の方から「さまざまなリクエストも配慮していただき、有難うございました。」というコメントも頂きました。
皆様、ガイドの説明をよく聴いてくださり、ありがとうございました。

久しぶりの団体ガイドは楽しく案内ができました。
依頼先と連絡を取り合い、コースや資料も提供しました。
団体ガイドは小グループからのリクエストに応じた、駒込周辺(主にホームページにあるコース)の案内をしています。
お申し込みはホームページの「お申し込みフォーム」の「団体用」で受け付けています。
お申し込みをお待ちいたします♪

12月4日は定番の「六義園の紅葉鑑賞と大和郷」です。
次回の募集は3月の「染井 桜ツアー」です。来年をお楽しみに!