11月27日(土)午後1時から約2時間で、「地理の会」の方々を大塚駅
から巣鴨の高岩寺まで、ガイドをしました。空気は冷たいものの、快晴で気持ち良く街歩きができたと思います。
平成21年に大塚駅南北自由通路ができ、平成29年5月大塚駅南口駅前広場、
大塚駅北口駅前広場と次々に再開発が進み、駅前には有名なホテルやビルが建ち、ビルの中にある、おにぎり屋さんに行列ができていました。東京さくらトラム(都電荒川線)が走っています。
谷端川が流れていた頃、谷端川沿いにあった「不動明王立像」は川が滝のように流れていた場所に位置していたため、「滝不動」と呼ばれていたそうです。開発が進み、今は個人所有ビルの中の壁に流れる滝と、共にあります。
8月には例年、「東京大塚阿波おどり」が開かれ、1,000人以上の踊り手で
大塚が賑わいます。コロナ感染が広がっていた今年も開催は見送られました。
大塚駅南口のサンモール商店街のゲートを入ると小さな広場があり、五差路になっていて、商店が広がっています。角に大塚鈴本ビルが建っていてます。戦前はその場所に「大塚鈴本」という寄席がありました。その後80年代まで、「大塚名画座」と「鈴本キネマ」という2つの映画館がありました。今も「鈴本ビル」のプレートが残っています。
大塚天祖神社は鎌倉時代末に天照大御神を祀ったことが始まりとされています。巣鴨村(西巣鴨)全体の総鎮守でした。太平洋戦争の東京大空襲で被災しても、保護ししたところ回復したのが、写真の夫婦イチョウです。
天祖神社から近い所にイスラム教の教会があります。
東日本大震災の時には大塚の人たちと救援活動をしたり、
今日は教会の前で、慶応大学の学生さんが「子ども食堂」の
支援を呼びかけていました。
寄付の品はお米、乾麺、ハラールショップにある物だそうです。
カップ麺もありました。アルコールは受け付けていません!
巣鴨協会に「自営館」が設立され、身寄りのない子供や学生に仕事を与え、自活させながら、学校へ通わせていました。山田耕筰も父を亡くし、この教会で子供時代に印刷工をしながら暮らしていました。
作詞 北原白秋、作曲 山田耕筰の「からたちの花」は【白い花、青いとげ、そしてあのまろい金の実。それは自営館生活における私のノスタルジアだ。】
と自伝に書かれています。
児童遊園の中にある石碑には
「この街でおおくの子らの母であった丸山千代先生 瀬尾弘吉書」
とあります。大正から昭和にかけて聾啞者などの教育や生活困窮者の
子供たちのための託児所を設置、運営しました。
大塚三業地には料理屋、芸者置屋、待合の三業(三つの分業)がありました。
待合とは料理を作らないで、接客の部屋を提供する場所で、
商売の接待や芸者遊びに使われる場所です。
歌舞伎役者で人間国宝の坂東玉三郎さんはここにあった料亭「富士間」の息子さんです。
明治維新後、現在の大塚から巣鴨駅にかけて牧場がありました。
東福寺参道脇に「疫牛供養塔」があります。
廃兵院のあった場所にある巣鴨公園には「護れ傷兵 忘るな武勲 陸軍大将本庄繁」の石碑があります。廃兵院は、日露戦争での負傷兵を収容するのための約2万坪の施設でした。負傷兵は全国から集められ、付き添いの家族も周辺に移住してきました。1936年に小田原に移転し、1923年に負傷者のための義肢義足などをつくるための啓成会が設立され、障がいのある人のための生産活動を続け、現在に至っています。今日はドアが閉まっていました。
明治24年に上野駅の整備により巣鴨に移ってきた高岩寺は畑や牧場のある郊外で、参拝客が減っていました。明治36年に日本鉄道の山手線巣鴨駅が開通し、住職が縁日を増やしたり、工夫を重ね「とげぬき地蔵」の御利益を広めていきました。現在は洗い観音も多くの参拝者に親しまれ、4の日の縁日には大変な賑わいで、「おばあちゃんの原宿」として知られるようになっています。
今日はここで、解散です。
地理の会の方から「さまざまなリクエストも配慮していただき、有難うございました。」というコメントも頂きました。
皆様、ガイドの説明をよく聴いてくださり、ありがとうございました。
久しぶりの団体ガイドは楽しく案内ができました。
依頼先と連絡を取り合い、コースや資料も提供しました。
団体ガイドは小グループからのリクエストに応じた、駒込周辺(主にホームページにあるコース)の案内をしています。
お申し込みはホームページの「お申し込みフォーム」の「団体用」で受け付けています。
お申し込みをお待ちいたします♪
12月4日は定番の「六義園の紅葉鑑賞と大和郷」です。
次回の募集は3月の「染井 桜ツアー」です。来年をお楽しみに!